「☆と一緒に」

夏物をクリーニング屋に

10月上旬は涼しい日もあったけど、夏日か、時には真夏日に近い日もあった。

中旬になったら肌寒くなり、クリーニング屋で保管していた冬布団が間に合って良かったけど、入れ替わりに夏布団を出さなきゃ。

布団と一緒に、夏の服もクリーニングに出してそのまま保管してもらうことにする。
すっかり荷造りして、ヤマト便に集荷の電話をする。
希望の集荷時間を聞かれた。
夕方、あと2時間後には出かけるから、もう無理だろうと思っていたら、地域担当者に連絡するとのこと。

10分もしない内に、「ピンポン~~~」
いやぁ、ビックリした。
もう集荷に来たのだ。

担当者いわく「急いでいるって言うから、急いで来た」って。
やっぱりクロネコヤマトが一番だね。




ミュージカル「レディ・ベス」


帝劇に「レディ・ベス」観に行った。

エリザベス1世が誕生してから、その異母姉妹のメアリー1世が英国を統治している間の話。
ミュージカルなんだけど、その時々の時代の説明が台詞で入って、だから全体的な歴史の流れに沿った物語になっている。
もう何回目になるのか、これも再演なので、感情移入するような場面や印象深いメロディーがない分、もういいかなという感じがする。

石川禅さんはだいぶスマートになって、吉野圭吾さんは最初だれ?と思ったくらい全体にふっくりして声も太くなっていた。
それこそ時代の流れを感じた(?)










学生さんが書いた3月の集会の写真入りルポ

今年3月の「地下鉄サリン事件から22年の集い」に参加してくれた法政大学の春名美咲さんが、集会のルポを書いてくれた。
春名さんは事件が起きたときには生まれていなかった。
集会に参加して、これだけのすばらしいルポが書けるということは、事前に相当量の予備知識がないと書けるものではない。
いただいたルポを読んで、しっかり正確に記録されているのにはビックリ。
集会の時のいろいろなこと、特に楽しかったことを思い出して、読んでいて楽しい。

学生さんから見た事件や被害者のこと、集会のことなど、いままでとは違う視点で捉えていることがわかって、私も勉強になる。
事件からこれまで何度も心が折れそうになったけど、こういう機会に出会えると、大変だったことが報われるという気持ちでいっぱいになる。

この文章の最後に写真の撮影者の名前があるように、実際にはこの文章の合間に5枚の写真が挿入されている。
全部私の写真で、とっても良く撮れていて嬉しい。
だけどご披露するのはちょっと照れくさいのだけど、閉会してから学生さんたちに取材されているシーンがちょうど有る。
雰囲気を感じてもらうにはちょうど良いかなと思うので、一枚だけ。


先日、 電車に乗り込むと、 目の前の席の足元に小さな茶色いボストンバッグが置いてあることに気付いた。 「社内や駅構内で不審な荷物を見かけ場合は、ただちに駅員・乗務員にご連絡ください」 というアナウンスが頭のなかに響き渡る。 ただの忘れ物かもしれない、 けれど、違うものかもしれない。 バッグの中身が、 最悪の場合何をもたらすことになったのか、 私は知っている。1995年生まれの私のなかにも生きているものがある。 私は駅員に知らせるために電車を降りた。ただの忘れ物であることを祈りながら。

1995年3月20日。あの日から高橋シズヱさん(70)の闘いは、時を経て鋭さ、穏やかさ、憂い、様々なものをたたえながら、 今日まで続いてきたのである。 高橋さんは地下鉄サリン事件で、 地下鉄霞ケ関駅助役だった夫一正さん(当時50歳)を亡くした。現在は「地下鉄サリン事件被害者の会」の代表世話人である。

2017年3月19日、 「地下鉄サリン事件から22年の集い」は執り行われた。10時、関係者のみのミーティングが和やかに行われた。高橋さん自身にも、関係者にも、慣れた雰囲気が感じられる。10時30分、 リハーサルが始まった。 高橋さんはパワーポイントの調節に余念がない。 音や映像が遠くからでも見えるかどうか、 風が当たって揺れてしまっているのではないか、 何度も確認する。これは、 彼女が主となってつくる地下鉄サリン事件から22年の集いなのである。

地下鉄サリン事件の集いが始まるきっかけは、事件が起こった1995年の翌年から記者会見での発信を10年間行ったことに由来する。 2004年に松本智津夫被告の一審死刑判決が下ったときまでは、 被害者が気持ちや意見を求められる場が会見で多くあった。 2005年、 メディアが報道するある種の区切りとして認識されている10年という年月が経過した年に、 被害者救済を目的として発信する場として、 アメリカの911の遺族を招いたシンポジウムを始めたときから、 「地下鉄サリン事件の集い」は始まっている。それ以来、2011年、東日本大震災が発生した年と、2012年、平田信被告が元旦に出頭してきて記者会見を開いた年以外は続けられている。

会のなかで出す予定のインタビュー映像についてのお話を伺うことが出来た。 高橋さんが見せてくれたビデオカメラは4Kの映像が撮れる最新のものだ。 このビデオカメラで、 彼女と医師である石松先生との対談を撮ったのだという。 今回は50分に及ぶ映像をプロの編集によって1 7分半にまとめたものを用意している。

「22年になって、私も70ですから」、彼女は微笑んだ。集いの様子もこのビデオカメラに映像として収め、遺族に見せるのだという。事件から22年、 高橋さんが70歳になり、遺族もまた高齢化が進んでいる。以前よりも東京に来ることが難しくなった人も増えた。また、 3月20日は遠方に住んでいる遺族はお墓参りに行ったりと忙しく、 東京に出てこられる人は少ない。 映像なら後から見せることが出来る、 だから撮るのだ、 と彼女は語った。 このように、 自らも映像機器を使って発信するということ、 それはこの地下鉄サリン事件から22年の集いを行い、 世間に向けて伝えることのみならず、 同じ遺族に向けて、 また、 まだ見ぬ誰かに向けて伝えていきたいという思いの表れだ。 黒くごつごつとしたビデオカメラは彼女の手から大きくはみ出している。

12時30分、集いの参加者が集まり始めた。彼女が気にしていたのは、 参加者のことだ。 「これじゃ通れない。 コードも引っかかるかもしれない」 会場の後方にいる各テレビ局のカメラクルーに、通路を確保するよう指示をして回った。そして次々訪れる参加者に、 彼女は笑顔で声を掛ける。 「こんにちは。今日はありがとうございます」、 「どうぞ前の方に」、 「いつもありがとうございます」。
参加者のなかには、大学生と思われる若者が目立つ。高橋さんは慶應義塾大学や立教大学などでも積極的に講演を行っており、 その講演をきっかけとして、 大学の先生や多くの若者が訪れるのだ。 集いが始まる前、 会場は満席となった。 高橋さんは席を増やしたり、 詰めていただいたりと始まる寸前まで会場の隅々まで気にして目を光らせ続けた。

13時、 開会の挨拶がなされた。 参加者にお礼を述べたあと、 高橋さんは集いの趣旨についてこう語った。 「大学生への授業のあと、 感想文をいただくことがある。 若い世代はこの事件のことを知らない。 この事件を風化させないでほしい。 若い方にオウム事件を考えていただいて将来また、このオウム事件が起こらないようにしていただきたい」

「地下鉄サリン事件から22年の集い」が始まった。
まず、小野毅弁護士が「坂本事件・オウム事件を振り返る」 として事件の全体像を年表とともに解説した。 それは麻原彰晃がオウム神仙の会を設立したときから解説されたが、 年表をḷ って繋げて見てみると、 地下鉄サリン事件が引き起こされる前までに、 こんなにも多くの事件があったのか、 ということを改めて認識して驚きを隠せなかった。

その次に、石松伸一氏と高橋さんの対談の映像が流された。石松氏は地下鉄サリン事件当時、聖路加国際病院では救急部の最年長者として救命活動にあたり、現在は同病院の副院長 兼 救急部部長を務められている。 地下鉄サリン事件が起こった当時、 大きな被害が出た築地駅から近い聖路加国際病院では、当時の日野原院長が「外来は中止、患者はすべて受け入れる」と宣言したことによって、 被害者治療の拠点となった。 映像のなかで石松氏は 「受け継いでいかなければならない」 と強く訴えた。 多くの教訓と反省点がある。 事件当時に、 被害者の方が多く、 行き場所がなくなったため霊安堂で処置を行ったところ、 換気が十分ではなかったため、 二次被害の危険があったことなど、 その記憶は昨日のことのように語られる。 聖路加国際病院では、 年に数回は病院内の新人へ向けて話をすることが続けられ、 受け継がれている。

つづいて遠藤正博氏が「オウムの恐怖から国民を守る」というテーマで講演された。元公安調査庁関東公安調査局長である遠藤氏は冒頭、 この講演を引き受けた思いとして 「開かれた場に出ることは少ないが、 高橋さんに口説き落とされたので」 と話した。 まず、 公安調査庁によるオウム真理教への取り組みが解説された。 つづいて、 教団の現状について話が及んだ。 現在オウム真理教の後継団体であるアレフやひかりの輪は、 信徒を得るために勧誘活動を続けている。 北海道や京都などに支部が作られ、 スーパーなどに近い場所に教団が開かれていて、 支部ごとに信徒の獲得実績を競い合っている。 いまでも、 宗教色を隠したイベントから誘い出し、 ヨーガの指導を行う団体として人々を誘い続けている。上祐史浩氏は、 「自分たちは宗教ではありません」 と話し、道場ではなく、 教室と言い換えたり、 麻原の影響はないと強調しているが、 実際はオウムの教えを基盤としたものであることは否定出来ない。 団体へは観察処分が続けられている。 結びでは、麻原彰晃処刑後の、 後追いや報復問題について言及された。

最後に日本放送協会大阪報道局の広報部副部長である藤田浩之氏が、 「ジャーナリストとして被害者と家族を見続けて」 というテーマで講演された。 まず、 地下鉄サリン事件の影響は今も続いていて、 心の傷などの被害は伝えきれないということについて言及した。 また、 被害者の方のアンケートが発表され、 「風化させないで」 が10人に7人、 「忘れたい」 が10人に2人という結果であった。 藤田氏は同じことを繰り返さないことが大切だと述べた。 被害者の声には、 いま現在、「起きないでしょう?」 と思っている人が大多数ではないか、 という意見もあった。 これから生きていく私たちが、 テロリスト達への抑止力とならなければならない、 と語気を強めた。 最後に、村上春樹の言葉、 「 『忘れない』 それがときには何より大きな力をもつ」 という言葉が紹介された。藤田氏は、 被害者の方々は忘れることより、忘れないことを望んでいる、 と述べ講演を締めくくった。

登壇される予定だった方のお話がすべて終わったあとに、 当初からオウム事件を取材されているジャーナリストの江川紹子氏が登壇され、 ひとつの言葉を投げかけた。 「生きる意味を考えたことがありますか?」 これはオウム真理教が使っていた勧誘の言葉のひとつだという。 江川氏は「被害者だけではなく、 加害者がいることも認知して、 加害者にならないということも意識してほしい」 と話された。

172名が参加した集いがすべて終了したあとも、 その場に残って様々な立場の方で話が取り交わされた。 高橋さんも様々な方と話されていてなかなか声をかけることができない。 少し待ってから、 「あなたがどう感じたか知りたい」 と言われていた私は正直な気持ちを高橋さんに伝えにいった。

私が感じたことは2点、 まず1点目に、 高橋さんの笑顔の場面を沢山見たこと、 それがとても意外だったということだ。 私は1995年6月生まれであり、 地下鉄サリン事件は生まれる前の事件で
ある。 小さい頃からテレビで見てきた高橋さんは、 裁判の判決が出た際に会見で常に険しい表情を浮かべ、 重く発言されていた、 その印象が非常に強かった。 実際に活動をされている1日を取材させていただくと、 馴染みの人と再会するとき、 参加者に声を掛けるときの柔らかな表情が印象に残った。そう伝えると、私が持っていたイメージは、 「作られた遺族像」ですよ、と教えていただいた。大変失礼ながら私の中にもあった「高橋さん像」は壊れたが、その像をメディアに背負わされて生きてきたということはどれだけの重荷だったのだろう、 と思った。 そしてこれからも背負っていくものは、 事件の風化が叫ばれるにつれ、 軽くなるわけでは決してないと思われた。しかし、 沢山の人が来てくれましたねと話すと彼女は、 「私は主人が巡り合わせてくれるのかなあと思ってるんですよ」 とまた優しく微笑んだ。 そこで彼女は、 このように多くの人で作り上げた集いの場を見ても分かるように、 物理的にも、 精神的にも、 きっと1人で頑張っているのではないのだろうと感じた。

2点目は、 バトンを渡されている、 ということだ。 この地下鉄サリン事件から22年の集いは、事件の概要の報告で全体像を、 病院側の対応を見ることでこういった事件に対応していくための知識の継承を、 公安庁の取り組みからオウム事件に対してどう対処していくのかという方針を、 そして最後に事件の風化を防ぐことを被害者は望んでいる、 と結ばれた。 それによって、 「何も知らないまま来た」 というような一連のオウム事件を知らないまっさらな若者たちの心に、 知識を与え、 警鐘を鳴らす構成となっていた。 集いの趣旨は高橋さんが言ったように、 「事件を再び起こさないこと」 「事件の風化を防ぐこと」 である。彼女と出会ってからこの日まで、 知ってほしい、来てほしい、 考えてほしい、 その強い思いを感じないときは無かったが、 その集大成を見た、 という感覚が私を貫いていた。 どうやって遺族の気持ちを伝えていくか、 どうやって来られない人にも共有してもらえるか、 どうやって若い人に知ってもらうか、 どうやって風化させたくないということを伝えていくか。高橋さんはどこまでも気遣い、 目を凝らし、工夫し、追求していく。強い、 と簡単に書けるほどのものではない、 多大なエネルギーが彼女のなかにあって、 それがこのような集いの形になり人と人とを繋いでいる。 そこから渡される 「忘れないでほしい」 という思いのこもったバトンは熱く重く、 人々の心の深いところに突き刺さる。


20170319・春名ルポ(4)-a


私はバトンを受け取った。 誰もが被害者にも加害者にもなりうる、 最初は普通だった人々が起こしたオウム事件を、 「また起こりうること」 だと考え続けること、 これから生きていくなかで、決して忘れないということ、 次の世代にも引き継いでいくことが、 バトンを受け取った私に出来る数少ないことである。

「地下鉄サリン事件被害者の会」に残された課題は2つ。サリン中毒の後遺症による健康被害の問題と、オウム真理教の後継団体である「アレフ」 「ひかりの輪」の監視と麻原の回帰を阻止することである。 その課題の解決を果たすため、 この集いを通じて伝え続ける活動をしている高橋さんだが、 「来年はどういうテーマにしようかと考えはじめている」 とわくわくした気持ちでいると伝えてくれた。 高橋さんはこれからもその大きなエネルギーと、 多くの仲間ともに、 警鐘のバトンを次の世代の人に渡す活動を続けられるのだろう。 その顔はいきいきと輝いているようにみえる。

     (総字数 5163字 文責/春名美咲 写真/佐原光)








記事・・・もがき苦しんで「成長」

先月ニューヨークに行ったことが記事になった。
共同通信が配信する連載記事 「笑い・命さざめく」 
テーマの説明に、笑いが織りなす人間模様を世界に追う、とあるように海外での笑顔で元気になれるようなエピソードの数々が紹介されている。
加盟30社くらいが掲載していると聞いていたけど、最初の東奥日報(青森県)の掲載紙をいただいた。



犯罪被害者遺族、とりわけ何の落ち度もないテロ事件の遺族、しかも飛行機でビルを崩落させるとか、密閉空間でサリンを散布させるなどという想像を絶するようなテロで愛する家族を失った遺族は、破壊された心を修復させることなどできない。
被害回復とよく言われるけど、そんな言葉は私のどこにも微塵もかすめない。

事件から10年たった時でさえ、自分の行動(被害者の会の活動)が日常化しているにもかかわらず、もう1人の自分がいるようにしか感じられなかった。
高橋の姉弟には「シズヱさんの化けの皮が剥がれた」、「いままでネコ被っていたんだ」と言われた。
ひどい言葉だった。
彼らがそんな言葉を吐くような不親切な人たちだとは思ってもなかったので、言われたそのままを返してやりたかった。
しかし、彼らから見た私はそれくらい大きく変わっていたのだと思う。

事件が起きてから、我が家に関して言えば、みんな精神的な孤立無援になった。
私も、子どもたちも。
子どもたち3人も、それぞれが。
そこから自分の人生をどう再生していくかは、自分で切り開いていくしかなかった。




20171025・東奥日報(笑い命さざめく)共同配信






秋の小旅行決定と、来年3月の準備

11月の始めに大阪で講演をすることになった。
関西方面に行くときは、大阪とか、京都とか、神戸の知人何人かに「行くよ!」って言うと、ドドッと集まってご飯を食べたりするんだけど、三連休だしちょっと急すぎたこともあるので、声かけは控え、いままでとはちょっと違う大阪行きになった。

で、大阪にいる友人が4日、5日の休日は予定が入ってないからと、5日は講演に来てもらえることになり、4日は一緒にバスで京都観光しようということになった。
さっそく予約してくれたので、私は泊まるホテルと新幹線の手配。
あっという間に、昨日まで考えてもいなかった小旅行が決まった。
紅葉はどうだろう、色づいているだろうか・・・
今月初旬にも京都にいったので、京都づいている私。

さてさて、講演の準備も京都観光のようにあっという間に仕上げたいけど、願望だけが先走り。



今夜は、ステキなレストランで食事した。
東京駅大丸、13階にある 「Salvatore Cuomo Bros.」
13階のフロア全部を使っていて、床までガラス張りの大きな窓からは東京駅を真下に皇居方面の夜景が目の前に広がる。
料理も繊細でサービスも良く、バーからのピアノと歌のライブが聞こえてくるのも特別席にいるような雰囲気になれる。

ここに来たのは、「ワークショップ」や「ファシリテーター」のことを教えている先生のご教示を仰ぐため。
もう何年もワークショップを取り入れて仕事をしておられるベテランだ。
なんでもそうだと思うけど、技術というのは経験を積むことによって磨かれるもので、一朝一夕にはいかない。

私も以前にアメリカでファシリテーターの研修を受けて、方法論はわかっているつもりだけど、経験があるとまでは言えない。

どうしてご指導をいただこうと思ったかというと、来年3月の「事件から23年の集い」の一部にワークショップ的なグループ活動を取り入れようと思ったからだ。
グループは、いつもだと150人以上の来場者の方々になることから算定すれば、単純に考えても、1グループ10人だとして15個できる。
そうすると、ファシリテーターは15人必要になる。
その15人のリードによって一つの方向になるようにするのは、それはそれは大変。
きょうまで苦悩の日々。

でも、今夜はいろいろなアイデアやヒントをいただいた。
私の企画案も手詰まり状態だったけど、前途に光明!
がんばろう


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